曲目解説 その3 ーDear Liz はこちら

          青猫のトルソ1はこちら


「青猫のトルソ」前回の続きで、「青猫のトルソ2」です。

 

 

ここに猫の絵があったとすると、その絵に描かれたものは猫に似ているということにより、「これは猫の絵である!!」と私たちは判断します。フーコーによると、「絵画における造形的表象は沈黙の断言である」とのこと。つまり猫の絵は、見ている私たちに「これは猫だああああ~~!!!」と否応なしに迫って断言してくるんですねえーーー

 

 


 

 

 

マグリットの「イメージの裏切り」のパイプの絵は著作権により引用できないので、(もとの絵はこれです、リンクで飛んでね)ここでちょっとアレンジして、パイプを猫に、そしてフランス語を日本語に置き換えてみると、この左の絵のようになりますね。フーコーによりますと、マグリットはこの絵で、「これは猫だああ~~!!」という「沈黙の断言」を、言語的表象が否定している、ということです。「マグリットの絵画が何よりも執着しているのは、表記的要素と造形的要素を残酷に引き離す」ということだ、と言っています。

 

???ですが、この絵となぞの文章は一般的には、これは猫の絵であって、実物の現実の猫ではない、というふうに解釈されているそうです。んんん~~でもそんなのあたりまえじゃん、っということではありますが、考えてみると「これは猫の絵にすぎない」という絵の認識は、どこか他に別に実物の猫の存在があるからこそ成り立つもの、ですよね。


 

 

 

 

 

ところがですね、マグリットはさらに「これはパイプではない」の絵を何枚も他に描いていて、特にこのバージョンが気になります。パイプを猫に置き換えてみると左のようになります。(『吾輩は猫であるにゃー』はもちろんマグリットの原画にはなし、で、私が勝手にダジャレで付け加えたものですうう)

 

 

 

 

 

 

んんんんん~~~ここではキャンバスの中の猫は、キャンバスに描かれているということにより「これは猫ではなくて絵にすぎない」ということは明白になったにしても、後ろを向いている猫を「これは現実の猫ではない」ということはもはや不可能。「これは現実の猫であってキャンバスの絵の猫ではない」とこの後ろ向きの猫は迫ってきますね~~あれ??絵の中の猫が「吾輩は現実の猫であるうう~~」と主張していることの矛盾。つまり私たちのいる側の現実を、このキャンバスのこちら側にいる後ろ向きの猫が背負ってしまっていることになってますね。ということは、私たちのいる現実をさらに描こうとするともしかして下の絵のようになってしまうのかしら???


 

 

 

あれ~~~~~ということはさらにはもう1匹こちら側に現実の猫が、え、でもさらにはもう一匹こちら側にいるのかも。。。これは永遠に続くのでは。。。鏡を鏡で映したような世界にはまってしまった。。。

 

フーコーはこんなことは勿論言ってませんが、自分なりに想像してマグリット風の超現実の世界にはまってみたらこうなってしまいました。

 

 

現実と超現実、その真の意味でのシュールレアリスムは音楽にはなかったとされています。音楽はもともと抽象的な世界で、具体的なものや現実を表せないものだから。でも「現実と超現実」という言葉を「夢と現実」に置き換えると、それに匹敵する世界を音楽で切り開いたのはドビュッシーだったと思うんです。それでね、教授の「青猫のトルソ」がマグリットのシュールレアリスムのイメージで、ドビュッシーのフランス和声なんじゃないかと。またまた本論までたどりつけなかったけど、次回は「青猫のトルソ」の曲自体と分析についてやっと書けるかも。。。つづく。。。書きたいことがいっぱいで無事ちゃんと書けるかなあ。。。