2021年6月30日発売予定!(発売日は早くなる可能性があります)

 

岡城が10年の年月をかけて編曲に取り組み、4年の年月をかけて録音・プロダクションを完成させた衝撃作

 

 

スクリャービン:プロメテウス、火の詩 作品 60

            ピアノ編曲版7台ピアノ用多重録音

   編曲:岡城千歳

 

   スクリャービンピアノソロ作品   

      2つの詩曲、作品63

        1曲 「仮面」

        2曲「奇妙なもの」

      2つの詩曲、作品69

        1曲 アレグレット

         2曲 アレグレット

      ポエムノクチュルヌ作品61

 

カタログ番号 C20003



リリース前

岡城千歳スペシャルインタビュー

 

 

「プロメテウスのコンセプトをめぐって」

ピアノ編曲版7台ピアノ用多重録音

 

 

 

 

 スクリャービンの交響曲のピアノ編曲については、今回の「プロメテウス」以前にもすでに、「法悦の詩」の2台ピアノ用編曲版 (コニュス編曲に更に岡城が手を少し加えたもの)で多重録音をしていますね?

 

(岡城千歳)――――――はい。もともとスクリャービンには入れ込んでいて「プロメテウス」以前にすでに、5番ソナタ、練習曲全曲、「法悦の詩」の3枚のスクリャービンCDをリリースしていました。「法悦」のピアノ版を初めてピアノで弾き始めた時は、あの曲の冒頭のオーケストラのパッセージが非常にピアニスティックに聴こえることに驚いて興奮した同時に、ピアノでより一層魅力的に聴こえるのは至極最もなことだと納得しました。[「法悦」の他にも、ワーグナー超絶技巧編曲集やチャイコフスキー「悲愴」やマーラー「巨人」など、オケをピアノで弾くというのにはたくさん経験があるのですが、スクリャービンのオケをピアノ編曲で弾くというのは、それとは根本的に意味が全く違います。オケをピアノ編曲で弾くというのは普通、オケとして完成された音楽内容を、ピアノという楽器で表現 (再現ではない)することに意味があるのですが、スクリャービンの場合は逆といったらいいかもしれません。

 

 スクリャービンは優れたピアニストでしたからね。

 

――――――そうなんです。彼の作品はすべてピアノという楽器に曲想が基づいているので、曲想の発想自体があくまで非常にピアニスティックです。作曲家にもいろいろあると思いますが、スコアにいきなり書いていく人もいれば、特定の楽器を弾くことによってその響きから着想を得て曲想を練っていく人もいる。得てしてピアノの名手でもある作曲家は、ピアノという楽器を弾いていくうちに、手のなかから出てきた、とでもいえるようなピアニスティックなパッセージや曲想にたどり着くことが多いのですが、スクリャービンもまさにそうでした。彼がやりたかったことというのはあくまでピアニスティックな要素に基づくものであって、それをオーケストレーションがあまり得意でないスクリャービンが一生懸命にオーケストレーションしたあとが見えます。交響曲の1番から5番まで順番に見ていくと、彼のオーケストレーションが最初はかなりまずいものだったのが、だんだん手段をみつけていって、プロメテウスでは最終的にかなりマッシブなものになっていった足跡がよくわかります。ですから、スクリャービンの交響曲をピアノ編曲で弾くというのは、スクリャービンのもとの、よりオリジナルなピアニスティックな曲想に立ち返って表現するということを意味し、普通の交響曲のピアノ編曲とは真逆な意味があります。そういう意味では、プロメテウスでも法悦と同じコンセプトです。プロメテウスであのようにマッシブなオーケストレーションを取り去って、より純粋なスクリャービンのオリジナルな曲想を描きたかったということです。

 

 どうして「プロメテウス」を選んだのですか?特別な思いがあったのでしょうか。「法悦の詩」との相違点などありますか?

 

――――――「プロメテウス」では「法悦」とは明確に違う点があります、神秘和音と色光ピアノです。これにより、スクリャービンにはなんだか「いっちゃった人」というイメージがつきまとい、神秘主義者で神智学に傾倒、色光ピアノと照明とか、そちらの「変わった」「エキセントリックでおかしな人」という面ばかりが強調され、曲の音楽的な真の意味が理解されていないと思うのです。この曲でスクリャービンが本当に言いたかったこと、プロメテウスの苦悩とその決起に至る苦しい彼の個人的な葛藤の心理的過程、それを描いた演奏に出会ったことがない。スクリャービン自身もこのプロメテウスの苦しい心理に共鳴して、なんらかの彼自身のそのプロメテウスと同じ思いがあったからこそ、これを書いた、それは曲にまざまざと描かれている。だからこそこのプロメテウスこそが、私が編曲に専念して心理的にもつらい時期だった充電期間を、支えてくれた曲だった。それで、だれもその面からプロメテウスを描いていないのなら、自分で弾いてやろう、と思いました、ピアノソロだけではなくてオケも含めて全部。だから基本的には、法悦の場合とは違って、編曲がやりたくてプロメテウスを弾くことにしたわけではありません。この曲の真のスピリットを表現したかった、そしてそれを描くには、ピアノで弾くことがどうしても必至だった。

 

 スクリャービンの曲想の発想はすべてピアノから出ているから……

 

――――――そうです、スクリャービンの曲想の発想はすべてピアノから出ているから、スクリャービンが必死で身につけて行ったオーケストレーションをほどこしたものはどうも違和感があるのです。なんというか、法悦で見つけたオーケストレーションのやり方をプロメテウスで極限まで推し進めて音をマッシブに重ねてるわけですが、そうすることによって、失われたものがものすごくある、それをスクリャービンのオリジナルな曲想のピアノで弾くことによって、真のプロメテウスを描きたい、ということです。

 

 「プロメテウス」には色光ピアノがありますね! 

注*色光ピアノとはー プロメテウスの楽譜には、光の鍵盤、を意味するパートが、オケのスコアの最上段にト音記号の五線譜一段で全曲を通じて休みなく記されている。「光の鍵盤」とは、アレグザンダー・モーゼルによってスクリャービンのためにつくられた色光ピアノのことで、音が出ないキーボードを押すことによっていろいろな色彩の照明を操作できるようなしくみになっている。

 

――――――そうです、「色光ピアノ」について触れなければ!これについては、自分で詳細な分析・解説と検証を、楽譜付きで書いてCDのライナーノーツに載せています。色光ピアノパートについては、あたかもこれこそが、プロメテウスを理解する上で大きな鍵となるかのように思われ、様々な研究が行われています。しかし、私が見たところ、この色光ピアノのパートは矛盾だらけに思えてなりません。どうしても、後付けにしか見えない。それをあたかもこの曲の神髄であるかのようにありがたがるのはどうかと思うのです。この曲の神髄はあくまで神秘主義とか神智学とか色光ピアノを取り除いた、曲そのもののところにある、曲そのものを見なくてはいけない。更には、オーケストレーションを取り除いたところで曲そのものがもっとクリアに見えてくるところがあると思うのです。事実、スクリャービンはそのことに気づいていたからこそ、この後は神秘劇を夢見ながらも、ピアノ曲の作曲のみに専念していたのではないかと思います。

 

 7台ピアノ用に編曲ということですが、単なる2台ピアノではなくて7台にした理由はなんでしょうか?「プロメテウス」のスコアは音の数が非常にが多いので、全部音符を弾くためにそれで7台必要だったということでしょうか?

 

――――――ご指摘の通り、プロメテウスには分厚いオーケストレーションにより、数多くの音符がありますが、多いからそれをただ7台に分けて弾く、というのでは全く意味をなさないし編曲の意味がないし、アンサンブルとしても意味がない。私がやったのはそうではなくて、それとは全く違うコンセプトです。まず第1ピアノがあって、それはソロピアノとオケの一部を担い、超絶技巧に書きました。第1ピアノが音楽的に主要な部分を担い、それに債2ピアノの合いの手が入ったりで大抵は2台で進行し、時には3台から5台になり、最大で6,7台になります。つまり、多重録音の最大の目的は音色をつくるためであって、たくさんある音符を物理的に7台に分けて弾くためではありません。それでは音楽的意味を全くなさないですから。

 

 多重録音のレコーディングは、どういう手順だったのでしょうか?第1ピアノを最初に録音して、それに第2ピアノを重ねて、第1+第2ピアノができたところにさらに第3ピアノを重ねていったのでしょうか?

 

――――――第1ピアノが女王さまなので、それにすべて重ねていく方針をとりました。第1ピアノに第2ピアノ、その上に第3ピアノ、と次々と重ねていくやりかたではなくて、第1ピアノと第2ピアノ、第1ピアノと第3ピアノ、という具合に第1ピアノを中心にすべて録音し、ミキシングで7台すべて重ねました。

 

 7台ピアノの音が重なるということは、2台ピアノよりもそれだけ音の層が分厚くなりますが、音の数の多さで7台にしたのではないとすれば、迫力を狙ったのでしょうか?

 

――――――7台のピアノがいつも鳴っている状態ではなくて、概ねは2台ピアノで進行し、それが時折3~5台に、最大で6~7台になります。最後のコーラス部分と1か所を除いては、意外なことには、5台~6台重なっているのは、フォルテで激しく音が多い所ではなくて、ゆっくりでピアニッシモで音が薄いところです。フォルテで激しい所は、大抵は2台か3台で進行します。それはこの多重録音が、音量ではなくてピアノの音色を目的としていることと関係があります。例えばフォルテの激しい音は、ピアノの打鍵の冒頭のアタック音のノイズの要因が音色を決定づけますが、それと同じように、ピアニッシモの部分では特に、ピアノの打鍵後に残る弦の残響音、これをもがピアノという楽器のもつ特有の音色を決定します。だから多重録音でこの残響音を重ねることで、新しい音色をつくりたかったのです。

 

 つまり音色のために7台の多重録音を?

 

――――――そうです。遅い所の音色づくりがメインです。7台重ねたかったのは、スコアのたくさんある音を振り分けて音符を全部弾くためでもなく、ピアニッシモを新しいカラーで創りたかったからです。事実、最初をむやみに重ねていた音を、最後には削る方向で完成させました。ピアノが2台以上の編成になると、音が重なって複数になるという物理的な迫力だけで演奏と音楽を押してしまう傾向があります、それは絶対に避けたかったのです。物理的な迫力と音楽的な迫力は全く別物だからです。遅い箇所の残響音をとることでテンポがオケの倍近くの遅さになっているので、普通20分少しかかるプロメテウスが30分かかって弾いています。

 

 編曲には10年かかったそうですが?

 

――――――10年かかってもエンドレスに書き換えて、最後の最後のセッション中にも手を入れてました。私がプロメテウスを録音した理由は、編曲ものというより、私の思うプロメテウスを描きたかったからというところにあります。

 

 編曲家として出版社Boosey & Hawkesでアメリカの多くの作曲家と活動したそうですが、その経験もプロメテウスの多重録音に役立っていますか?

 

――――――ジョン・アダムス氏が、どうもいい編曲家に巡り合えないということで新しい編曲家を探されていた時に、彼の所属している出版社ブージー&ホークスから、ジョン・アダムズ氏をご紹介いただきました。以後、彼やアメリカの他の生存中の作曲家とご一緒にたくさんの編曲をさせていただきましたが、この経験から編曲についてだけでなく、作曲家の立場からの見た音楽観について本当に多くの事を学ばせていただきました。作曲家がどういう手順で作品を完成させていくか、その中からどういうふうに魂を吹き込んでいくか、それを目の当たりにすることができたこの経験がなかったら、プロメテウスの編曲はとてもできなかったと思います。演奏家は楽譜から作曲家の意図を読み取りますが、作曲家はどのようにしてその思いを楽譜に移していくか、演奏家として楽譜に接する際とは逆のプロセスを、作曲家の立場から学ぶことができ、本当に貴重な体験でした。

 

 既存の価値観にNOを突き付ける、いわばかなりラディカルな思想のCDと言えるかと思いますが、保守的な考えを持った人々にどう受け取られるか、心配していますか?

 

――――――――「スクリャービンはこうあるべき」「ショパンはこう弾かれるべき」「音楽はこうあるべき」と思っていらっしゃる保守的な方々には到底理解されないでしょうね。でもそれは私の勲章だと思っています。新しい音の響きを開拓創造しているからこそ、そういう反応があるのですから。単に奇をてらって「7台ピアノ多重録音」をしてみた、のならむしろラディカルな要素は少ないがゆえに逆に受け入れてもらいやすいと思いますが、そうではなく、確固とした信念と思想に基づいているからこその「異端者」としての勲章です。スクリャービンがいかにこの「プロメテウス」作曲時に苦しい思いを抱いていたかは、楽譜を見て弾いていると、痛いほど、身につまされて感じるのです、自分も苦しい思いをしていた最中だっただけに余計に。その「涙」の思いがこのプロメテウスには深く込められている、だから弾いていて何度も涙しました。その思いを、聴いていただける方々にお伝えしたい、その万感の思いの一心で創ったCDです。プロメテウスの苦悩が、そしてそのスクリャービンの涙の思いが、私の思いが、聴いてくださった方々にお伝えすることができれば、本当に光栄でしあわせに思います。それだけが重要なことで、その他のことは全く問題ではありません。

 

 プロメテウスが普通オケだと20分少しかかる演奏時間が、岡城さんの新譜のピアノ編曲版だと30分かかっているとのことですが、それでは、スクリャービンのいわゆる一般的な「演奏スタイル」と呼ばれるものから外れた演奏ということになると思います。その辺りはいかがお考えでしょうか。

 

――――――スクリャービンのゆっくりした箇所の私のテンポが遅いことに関してですが、これは「スタイル」や「様式感」の問題ではありません。「解釈」の違いです。混同されています。ピアノの名手でもあったスクリャービンが、自身の作品を演奏した時は、毎回テンポが全く違っていたそうです。つまり彼の楽譜に書いてあるメトロノームは全く当てにならないということです。私の兄、岡城一三は作曲家ですが、彼が紹介してくれた次のような事があります。八村義夫の「彼岸花の幻想」というピアノ曲の楽譜にある「註」 ですが、作曲家八村義夫氏自身の言葉です。以下抜粋です。

 

 「 dynamic, 発想---等の, 音の❬ 表出要素の表現 ❭ は, 重要であり, かつ, 強調されてよい。ときとして, その音の❬ 音高, 音長の表現 ❭ 

 よりも, さらに重要である。そして, この作品において, 表出要素 は, ❬ Time-space の形成 ❭ に, 極めて多く関係する。一例をあげ

 れば, crescendoは,  ❬ = だんだん音を大きくしてゆく ❭ という意味以上に ❬ = あおりたてる, きりたててゆく ❭ という意味 にとら

 れたい。その結果生じる, 演奏の ❬ irregular性 ❭,  ❬ 感情の乱 れ ❭ は, むしろのぞましい。したがって, この楽譜に示してある速度

 標語は, 通常の意味での ❬ Tempo ❭ を表しているのではなく , ❬ Time-spaceの形成 ❭ のおおよその見当を, 暗示しているのである。

 ʺ ▢ = ⭧⭩ 36 ʺ は,  ʺ = 1小節はメトロノーム36位の見当で演奏とのこと。しかし, 表出された音の欲求にしたがって, 大幅に揺れ

 動いてよい ʺ と読解されたい。」

 

勿論、私は、音楽におけるクレッシェンドの意味がすべてこうだとか、dynamicは音高よりも重要だとか、ここで主張しているわけでは毛頭ありません。しかし、この八村義夫氏の言葉は、音楽とは何か、演奏とは何か、そして解釈とは何か、そのもっとも重要なことを教えてくれるすばらしい言葉だと思っています。また、ついでですので、いわゆる「演奏スタイル」や様式と呼ばれるものに対しても自分の意見を述べます。人と変わった演奏をすると、とかく、スタイルや様式感を「無視している」「全く意に介してない」「やりたい放題」という受け取られ方、あるいは「奇をてらっている」という誤解をされる恐れがある­と思いますが、それは私の意図とは全く違います。「スタイルを無視して演奏する奇抜な岡城なら、*モーツアルトはロマン派のルバートで弾きそうじゃん」と言われそうですが、そんなばかなことは金輪際ありえません。モーツアルトにはロマン派のルバートで弾くべき「音楽の必然性」が全く存在しないからです。モーツアルトのフレーズ感はそういうルバートの必然性が全くない、だからそれがスタイルといわれるものなのです。例えばドビュッシーは「印象派」であるという認識が広く普及していましたし、今もその認識が根強い。印象派は「弱音」で弾くべきだ、それが印象派の演奏スタイルだ、とされています。でもそのアカデミックの固定観念はどこから来ているかと言うと、結局、印象派と言われる画家の絵画の輪郭があいまいでふわっとしている、そのイメージから来ているらしい、「印象派=曖昧模糊」といったような。ところが、ドビュッシー自身は印象派と言われることをむしろ大変嫌っていて、「私は、あのバカ者どもが呼ぶところの『印象主義』とは全く『別のもの』をつくろうとしているのです」 と言っています。そして現代ではドビュッシーを印象派ではなくて象徴派としてとらえる傾向が強くなってきました。そうすると、ドビュッシーは弱音でひくべき、というアカデミズムの様式感は崩れ去ってしまうことになり、それでは象徴派ドビュッシーは表現できないことになります。「スタイル」「様式感」とはそういうものです。つまり変わりゆくスタイルと、変わり得ないスタイルとがある。そして音楽自体にその必然性があるものが真のスタイルだと思います。私はスタイルを無視しているわけではありません。既存の様式感で音楽的に疑問があるものに対して、異を唱えているだけです。「スタイル」とは何か、というところから始めなければいけません。スタイルが音楽より先に存在しているわけではないのです。演奏スタイルも時代とともに変わっていきますし、ショパンが生きていた時代に彼の音楽が弾かれていたであろう「演奏スタイル」と、現代のショパンの「演奏スタイル」は全く違うわけなのです。それは時代性もあるだろうし、その時代の楽器による(ショパンの時代のピアノと現代のピアノではまるで違います)ものもあるだろうし、様々な要因によります。

 

*岡城千歳のシューマンの交響的練習曲とモーツアルトのソナタやスカルラッティのソナタが収録されている、旧譜CD-プロピアノPPR224501-をご参照ください。

 

 それでは「解釈」と言われるものについてはいかがでしょうか。

  

――――――音楽で一番重要なことは、曲に込められた作曲家の思いと意図を受け止める、ということです。演奏とは、その作曲家の思いと意図を楽譜から読み取り汲み取って、聴いてくださる方々にそれをお伝えするということです。そこで、作曲家の思いと意図に自分の思いが重なり、聴いてくださる方々の思いが重なる、それが音楽です。これだけが重要な事で、これを取り去ってしまったら音楽ではありません。そしてその作曲家の思いと意図を楽譜から読み取り汲み取っている段階で解釈、というものが生じる、編曲も演奏も同じ、いかに作曲家の思いと意図を汲み取って表現するか。私が音楽をやっている理由はここにつきます。作曲家の意図を無視しているからこういう編曲や演奏をしているのではなく、その全く正反対で、作品に込めた思いを底の底までつかんでお伝えしたいからこそ、こういう演奏をしているんです。スクリャービンがプロメテウスに込めた思いは、オケでやるとどうしても薄まってしまう、だから彼の手兵であったピアノでやることによって彼の思いをもっとダイレクトに伝えたいのです。 作品の解釈にもっと幅があってもいい、個性(という平坦な表現はすきではないのですが)のある表現や演奏をもっとされるべきだ、という意見を持っていますが、それは「解釈」の問題であり、「作曲家の意図」を尊重するということとはまた別の問題です。